机の上の整理をしていて、ふとカバーのかかった文庫を気まぐれに開く。
私はこういう本の読み方をよくする。おみくじでも引くような、わずかに心躍る感覚…。
それはサルトルの『マラルメ論』だった。この難しい本は、自分で買ったのではない。
友人の、読書家である娘さんの、不要になった本の群れから頂いてきたものだ。
いわば「受動性」の連続の読書。以下に引用。
・・・子供にとっては、悲しみはなんでもよい。母親が長い旅に出かけようとしているこの子供
は、ぼんやりと母親の接吻を受け、遊びに戻る。翌日には、はしかになる(原文は傍点)。はし
かが彼の悲しみなのだ。両親が離婚した別の子は、相変わらず陽気に笑ってはいるが、物を盗ん
だり嘘をついたりするようになり、あるいは、おねしょをする。彼らが苦しむすべを持たないと
言うのは正しくはあるまい。むしろ我々のほうが、悲嘆というものを、罪のないバレエ、芝居じ
みた一連の所作にしてしまったのであり、悲嘆によって惹き起こされた恐るべき不適応を、騒々
しく罪もない混乱に置き換えているのである。
ーちくま学芸文庫サルトル著『マラルメ論』よりー
ここを読んだとたん、私が3週間の旅行に出たときに猫が円形脱毛症になってしまったことを思い
出してしまった。はらりと涙が出て、似たようなことがら(これは人間の子供である息子の)が
次々と思い出された。歌のの本番前に必死で練習しているときなど、よく熱を出したものだった。
初めて保育所に預けたときは何日もそこの食事にそっぽを向いた。本当に子供はたくさんの悲し
みをうけてはこうやって見つけてもらおうとしているのだなと思う。
いま、私自身は猫が死んだ悲しみの中にまだいて、実際どうかといえば、いつもしているブレス
レットの石が濁ったり、糸が切れたり、胃腸が弱ったりと、まるで子供のようである。さらには
無理に元気を装って予定を入れたり、人に声をかけたりと、自分でもあきれるくらいだ。そして
こうして文章を書く。掃除や片付けより体がらくで、ためていた水が流れ出るように、すうっと
心が浄化されていく。元気な時、文章はあまり書かない。
2018.5.21